「限定」に踊らされることへの、恥ずかしさについて

少し前まで、「限定」という言葉に反応する自分がちょっと恥ずかしかった。マーケティングの言葉にまんまと乗っかっている感じがして、「もう少し冷静に判断できないのか」と思っていた。

でもある日、よく考えたら「恥ずかしい」と思う理由が全然なかったことに気づいた。誰かに迷惑をかけているわけでも、お金を騙し取られているわけでもない。「限定」に心が動いて、買って、使っている。それだけだ。何が問題なんだろう。

「踊らされている」という見方

マーケティングの罠にハマっている

「限定」という言葉が作り出す希少感に感情を動かされている。冷静に考えれば不要なものを買っている可能性がある。

「楽しんでいる」という見方

感情を豊かに動かしている

「手に入れた」という興奮を、数百円〜千円台で体験している。その感情体験自体がコンテンツだ。

「踊らされる」の反対は、「何も感じない」だ

「限定」に踊らされなくなった状態を想像してみた。どんな付録を見ても「まあいいか」と思う。限定品も「どうせまた出るでしょ」と流す。「お得」という言葉にも心が動かない。

それは冷静な消費者の姿かもしれない。でも同時に、書店を歩く楽しさも、開封する瞬間のわくわくも、全部なくなってしまう気がする。「踊らされない」の代償が、「何も感じない」なら、私は踊らされる方を選ぶ。

💭 踊りながら考えたこと

限定品を手にした瞬間の話

先月、「再販なし・数量限定」の付録つき雑誌を発売日に買いに行った。書店に着いたら残り数冊だった。手に取ったとき、ちょっと嬉しかった。「間に合った」という感じがした。帰ってから開封して、「普通にいいポーチだな」と思った。限定じゃなくてもたぶん買っていたレベルのものだった。それでも「限定品を手に入れた」という記憶は残っている。おかしい。でも嬉しい。

「限定」という言葉は、体験のパッケージだ

少し視点を変えると、「限定」という言葉はモノそのものの価値を変えているんじゃなくて、「手に入れるまでの体験」をパッケージにして売っているんだと思う。

発売日を調べる、書店に行く、棚を確認する、手に取る、レジに並ぶ、家に帰る、開封する。この一連のプロセスに、「限定」という言葉が意味を付け足している。同じポーチを定番商品として棚に置かれているのを買うのと、「今月だけの付録」として手に入れるのとでは、体験が全然違う。

踊らされているとするなら、モノじゃなくて体験に踊らされている。それはそんなに悪いことじゃないと、今は思っている。

いつまで踊らされるのか。たぶん、やめる理由ができるまでずっと。今のところ、やめる理由が見当たらない。

結局、来月も踊っていると思う

この文章を書きながら、来月の付録情報が気になっている。「限定」という文字がどこかに出てくるたびに、また同じように心が動くんだろうと思う。

「いつまで踊らされるのか」という問いへの答えは、「踊れる限りずっと」だ。踊れなくなったとき、それはたぶん付録の楽しみ方を忘れてしまったときだ。そうなるよりは、踊り続けている方がずっといい。

今日もどこかで「限定付録」が発売されているはずで、私はそれを知ったらまた書店に向かうと思う。それでいいと思っている。少なくとも今は。